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グッビオ
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Gubbio

 ウンブリア州の北東部、マルケ州との州境に程近くの山インジノ山の中腹に、目前の平野を見下ろすようにグッビオの町は建てられています。山の頂や中腹に町が作られていること自体、この町が他のウンブリアの町と同じ性質を持っていることを暗示させます。
 やはり町の起源は古く、他のウンブリアの町と同様に、ローマ時代以前のエトルリアの時代まで遡ることが出来ます。この町の古い起源を裏付けるものとして、古ウンブリア語で書かれた銅板が、現在町のランドマークとも言うことが出来るコンソリ館に残されています。
 ただ、これらのものが語る以上に、現在のこの町自体にエトルリア時代の息づかいを感じることの出来るような雰囲気が残されています。この落ち着いた石の色によって形成された町をゆっくりと歩いて回りたいものです。

■グッビオへの行き方
 先ず、グッビオへのアクセス条件はあまり良いとは言えません。
 鉄道で行くにしても、フォリーニョ-アンコーナ間というローカル路線にあるフォッサート・ディ・ヴィーコ(Fossato di Vico)という駅が最寄り駅になるのですが、それでも駅から町までは20km程あり、とても近いとは言えません。
 そう考えると、最も使える公共交通機関はペルージアからのバスでしょう。これであれば一日に数本の直通バスも出ているので、比較的アクセス条件は良くなります。公共交通機関を利用するなら、ペルージアをグッビオ観光のベースとするのがベストでしょう。ただし、ペルージア自体あまりアクセス条件が良くないのですが・・・。
 便利さ加減でいえば、車によるアクセスが最も自由度が高いですね。町の入口に大きい駐車場もあるので、停める場所の不便さも感じません。町までの道のりは、高速道路一本と言うような単純な道のりではありませんが、交通渋滞もないので、ゆっくりとマイペースで運転をすることが出来ます。

■グッビオの見どころ
 グッビオを見るためには、ひたすら歩かなければなりません。町の入口はまだ平野に属する部分ですが、そこから町の中心に向かっては、ひたすらインジノ山を登りながら町を散策することが必要になります。山の等高線に沿った道を歩く分には大変ではないのですが、登るときはちょっと大変ですかも知れません。でも、ゆっくりと町の風景を見ながら歩いていればそんなつらさもきっと忘れてしまうことでしょう。

町の入口
 グッビオの町は、平野部に大きく開けたクアランタ・マルティーリ広場(Piazza Quaranta Martini)から始まります。町の入口らしく、この広場からは町の全体を見上げることが出来ます。さぁ、これからグッビオの町を歩くぞ!という気分がきっと高まってくるでしょう。ちなみに、昔はこの広場で「市」が開かれていたそうですが、現在ではその面影を見ることは出来ず、1944年のナチスによる報復の犠牲者に捧げられた広場となっています。
 この広場に面して、サン・フランチェスコ教会(San Francesco)が建てられています。この教会はより大きく広い修道院施設の一部で、13世紀に建てられたのです。随分昔に建てられたにも関わらず、ファザードは未完。後方には、15世紀建立の多角形をした鐘楼がそびえ立っています。後陣部は鐘楼と同じく多角形をしており、建造当時の姿をしているそうです。
 この広場から山の方角に延びる、共和国通り(Via della Reppubbulica)は、町の中心シニョーリア広場(Piazza della Signoria)へと続いています。

町の中心、シニョーリア広場
 共和国通りを進み、突き当たりの階段を登るとシニョーリア広場にたどり着きます。地理的、政治的な町の中心と位置付けられるこの広場は、頑丈な地盤に人工的に作られた広場で、バルコニーのように下の平地に突き出しているために、眼下の町のすばらしい眺めを楽しめます。ちなみにこのバルコニー的な広場を支える4本のアーチは、Via Baldassiniから見ることが出来ます。
 この広場に面している建物の中で、一番際立っているのがコンソリ館(Palazzo dei Consoli)です。町のシンボリックな建築物であり、地元で産出された石材で建てられた中世の公共建築の重要な作品で、1332〜1349年にかけて建設されました。設計者は、正面扉の上の銘碑にその名が刻み込まれていることから、アンジェロ・ダ・オルヴィエートと考えられています。現在は美術館・絵画館となっていて、グッビオがローマ時代以前の都市であった事を証明する、古ウンブリア語で書かれた「グッビオの銅板」など、貴重な品々が展示されています。
 コンソリ館の正面には、現在の市庁舎として使われている14世紀のプレトリオ館(Palazzo Pretorio)が建っています。またこの広場のあたりには、中世後期の建物が多数残されており、「死者の扉(Porta del morto)」といわれる、玄関脇にあるもう一つの塗り固められた別の扉も見ることが出来ます。因みにこの「死者の扉」は、死者を運び出すために利用された扉で、その死者が家に戻ってこないように塗り固めるのだそうです。

町の最上部、ドゥオモ
 ドゥオモはこの町で最も標高の高いところに建てられています。そのために、ドゥオモまでの道のりは、ドゥカーレ通り(Via Ducale)の急坂を登り続けなければならなりません。それは、長く、そして、きついものです。
 現在のドゥオモは、はじめはロマネスク様式であったのを、14世紀はじめにゴシック様式で改めて建て直したもので、さらにファザードは16世紀に再改造されています。ファザードにあるバラ窓の周りには、もともとあった大聖堂に設置されていた彫像が配置されています。内部は広い単廊式になっています。三廊式の教会が多い中で、ちょっと珍しいですよね。
 このドゥオモの正面には、ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)が建っています。この宮殿は、代々ウルビーノを支配してきた家系である、モンテフェルト家のフェデリコ・ダ・モンテフェルトのために、1476年に建てられたと言われています。つまり、このドゥカーレ宮殿は、グッビオにおけるモンテフェルト家支配の象徴的な建物であるのです。ドゥオモの向かいに面して宮殿の荘厳な扉口があり、この扉をくぐると中庭に出るようになっています。この中庭はこの宮殿の中心といえ、円柱が並ぶ3辺の柱廊からなるルネッサンス様式となっています。下層部では白く澄んだ石が使われ、上層部では赤いレンガが使われており、とても鮮やかな配色なため、生き生きとした明るさを感じる空間となっています。町全体を占めている石造りの灰色の外観とは、非常に対照的な印象を受け、とても新鮮さを感じるところです。

眼下に町を見下ろす
 標高827m、インジノ山の山腹にそびえるサントゥバルド聖堂(Sant'Ubaldo)は、グッビオの町の守護聖人聖ウバルドに献納された聖堂です。聖堂の内部は五廊式という、珍しい構造。さすがに五廊式だと横への広がりをとても感じます。この内部には聖人の遺骨が入った骨壷が安置されており、今でも人々の信仰を集めています。さらにもうひとつ、山車のチェーリ(Cieri)という、グッビオの人々にとってなくてはならないものが保管されています。この巨大な山車は、聖人の祭日の前日5月15日に、旧市街からインジノ山頂まで山車を担いで競争するという、コルサ・ディ・チエーリ(Corsa di cieri)というイベントに使われるものです。実物はかなり大きく、こんなに大きいものを教会の中に置いておいて良いのだろうかという思いと、こんな大きなものを一体どうやってこんな山までかついで来るんだろうという思いで、不思議な気持ちがこみ上げてきます。付近には散歩コースもあり、眼下の町を眺めながら静かな一時を過ごすことが出来ます。
 サントゥバルドへの行き方は、三通りあります。一つ目は、町のサントゥバルド門(Porta Sant'Ubaldo)から徒歩で登るコースです。長い道のりに加えて、あまり整備されていない急な坂なので、かなり疲れると思います。と言うことで、このコースはあまりお薦めできないかも知れません。二つ目は、車を運転して上まで登るというコースです。一旦町を出て、回り道をしなければなりませんが、車なので疲れはしません。ただ、ちょっと面倒くさいかも知れませんね。三つ目は、リフトを使って登るコースです。そしてこれが一番のお薦めコースです。
 町の外れにあるロマーナ門(Porta Romana)を出て、ちょっと進んだところにリフトの乗り場はあります。このリフトは二人乗りで、しかも立ち乗りのリフトです。足元が透けすけのために高所恐怖症の人は、ちょっとしたスリリングな体験となること間違いなしです。ただ、リフトの上からの眺めは、町一番だと思います。旧市街はもちろん、町外れにあるローマ劇場後まで見渡すことが出来ます。

■町の逸話
 これは、アッシジの聖フランチェスコが、自著「小さき花」に記したお話しです。

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 グッビオの町には、かつて、獰猛きわまりない狼が出没し、動物や人間をむさぼり食べていました。フランチェスコは、狼のところに行って、これを優しくとがめ、こう言いました。「我が兄弟なる狼よ。今後おまえが仲直りし、平和に暮らしたいというなら、おまえが生きている限り、この土地に暮らす人々が、おまえに食料をやるようにすることを約束しよう。そうすれば、おまえも飢えに苦しむことはあるまい。おまえが悪いことをしたのは、ひとえに飢えのためだということはよくわかっているのだからね。」そして、以後決して誰にも悪さをしないことを誓わせ、そのかわりに、食料の心配がないようにする役目を引き受けたのでした。以後、狼はおとなしく家々を訪問し、行儀良く食べて、この町で暮らしました。しかしその2年後に、人々に惜しまれながらも、老衰のために亡くなってしまいました。

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