|
かつて、シチリア王国の首都であったパレルモは、現在に至るまでの記憶を町のあちらこちらに留めながら、現在ではシチリア州の州都となってその姿を我々に見せてくれます。またこの町は、様々な人によって統治されながらも、アラブ、ビザンチンなど多様な様式が継承され、独特の町の雰囲気を作り出してきました。
その様な選択肢の中で、時間が限られた中での移動をするのであれば、やっぱり飛行機がお薦めです。ミラノやローマからは1時間足らずで到着するので、とても便利かつ移動時間の節約になります。空港からパレルモ市内へのアクセスは、バスが運行されているので、それを利用すると便利でしょう。パレルモ市内のポリティアマ劇場がバスの発着場所となっています。 時間には余裕があるものの懐の乏しいような場合は、鉄道や船の利用がお薦めです。ただし、いずれの手段を選んでも、半日がかりの旅になるので予めの覚悟が必要でしょう。まぁ考えようによっては、レッジオ・カラブリア−メッシーナ間で列車に乗ったまま船に乗れるなんて体験は、そうそう出来るものではないので、ちょっと面白いかも知れませんね。
パレルモは、紀元前8世紀に住み着いたカルタゴのフェニキア人によって、その後に築かれた「パノルモス」と呼ばれる古代都市にその起源を発しているそうです。ちょっと余談ですが、象でアルプス越えをしてローマに攻め入ったハンニバル将軍も、カルタゴのフェニキア人だったりします。またまた余談ですが、町の名前の「パノルモス」は、ギリシア語で「すべてが港」という意味をさしており、ギリシア人の船乗りたちが船を接岸するのが簡単に出来ることから、こう呼ぶようになったと言われているそうです。当時と今とでは、もちろん海岸線も違っているでしょうが、パレルモが良港に恵まれた港町であったことは変わらないようです。 紀元前のシチリア島と言えば、セリヌンテ、アグリジェントに見られるような、ギリシャの植民都市が存在していたことを忘れることは出来ません。異なる国が、地中海最大とはいえ、小さな島に共存することは難しかったらしく、絶えず争いを繰り返しており、紀元前480年にもフェニキア人が、ギリシア人との戦争中に船団をパレルモに集結させたという史実が残っているそうです。そしてこのことが、パレルモを歴史の舞台へと紹介された史実となっています。 カルタゴの支配は、紀元前254年の第一次ポエニ戦争でローマ帝国の統治下に入るまで続きました。ローマ帝国統治後のパレルモは、名前も新たに「パノルム」と変更され、新たな歴史を築いて行くはずでした。しかしローマ帝国統治下にあった7世紀の間は、これといって発展を遂げることがなかったようです。ローマ帝国の統治後も、蛮族の国家やビザンチン帝国によって相次いで統治されるものの、ここでも都市としての発展を遂げることはなく、完全に都市としての停滞期に入り込んでしまったのです。 パレルモに転機が訪れ、飛躍的な発展を遂げるのは、831年にアラブ人の統治下に入るのを待たなければなりませんでした。アラブ人はパレルモをシチリア最大の都市にし、地中海交易のポイントの一つとして都市整備を進めたのです。そして948年にはシチリアを首長国とし、その首都をパレルモに置きました。この頃の推定人口は、ローマ帝国に統治されていた時代の10倍まで膨れ上がっており、急速にパレルモの都市整備が推し進められ、都市自体も拡大していったことを伺い知ることが出来ます。アラブ人は都市整備・拡大の一環として、モスクや邸館、庭園、市場などを建設していったそうです。この時代には、地中海交易を主導していたヴェネツィアやジェノヴァ、アマルフィの商館もあったというくらいですから、当時のパレルモが活気に満ち溢れていたことを想像するのは難しくありません。 1072年に統治者はアラブ人からノルマン王朝へと移り、1140年にはルッジェーロ2世がシチリア国王に君臨しましたが、それによりパレルモの発展にかげりが見えることはありませんでした。面白いことに、統治者が変わったからといって、アラブとヨーロッパの文化的な軋轢はなく、双方の文化を融合した建築物が次々と建てられていきました。パラティーナ礼拝堂、大聖堂、サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会など、その文化の融合の結晶をパレルモの町で見ることが出来ます。 ノルマン王朝の後を引き継いだのは、ドイツのホーウェンシュタウフェン家であり、統治権だけでなく「異文化の共存」という政策も引き継いだことにより、パレルモの町は文化的成熟を迎えることが出来たようです。異文化の行き交う宮廷で生まれ育ったフェデリコ2世は、当時アラブの方が優れていた数学や天文学などの学問をすすんで学び、アラビア語も流暢に話すことが出来たと言われており、十字軍遠征によるエルサレムの奪還に際しては、エルサレムの支配者がフェデリコ2世のあまりにも流暢なアラビア語に感服して、その支配権を認めたというエピソードもあるくらいです。 ホーウェンシュタウフェン家の後、1266年にアンジュー家がシチリア王として即位した時、またまたパレルモの町は転換期を迎えました。アンジュー家は、王国の首都をナポリに移しただけではなく、パレルモの文化的成熟を一方で支えてきたイスラム社会を排除してしまったのです。これを境に、それ以降パレルモは衰退の一途をたどることになってしまいました。更に国王の悪政も手伝って、1282年に市民は「晩鐘の乱」をおこし独自の都市国家体制を整備すると同時に、スペインのアラゴン家に援助を求めることによって、しばらくは自治体制を続けることが出来ました。しかし次第にアラゴン家の支配下に置かれるようになり、1415年、ついにスペイン王とシチリア王は不可分のものである旨の宣言がなされ、パレルモに最初の総督が赴任してきました。 このスペイン統治時代にも都市整備は進み、噴水が美しいクアットロ・カンティに代表されるようなバロック建築はこの時代に建設されました。その後、1712年にはサヴォイア家、1718年にはオーストリアのハプスブルグ家、そして1735年にはナポリのブルボン家と、次々とたらい回しのように様々な統治者の手に渡り、イタリア人の手に戻ってくるのは1860年のイタリア統一を待たなければなりませんでした。 このような歴史を持つために、パレルモの町では、多種多様な文化の融合した姿を町中に見ることが出来るのです。
歴史的に見てもパレルモの中で最も古い地域なために、他の町の旧市街地にありがちなように、大通りを除く脇道は細く入り組んでいます。そして人通りも少ないために、治安面に関してそれほど安全といえる地域でもありません。大通りから脇道に入ったところにある所を観光をする際には、十分な注意をしなければなりません。 注意は必要ですが、旧市街にはパレルモの歴史を刻み続けてきた数々の結晶を見ることが出来、そのひとつひとつが他のどんな都市でも見ることが出来ない独特の雰囲気を醸し出しており、まさに「パレルモ」を感じることが出来る貴重な地域であることも付け加えなければいけないようです。 ノルマン王宮 ノルマン王宮(Palazzo dei Normanini)は、カルタゴやローマ帝国時の城塞の跡地に、11世紀にアラブ人が城壁を建設し、12世紀のノルマン王朝時にノルマン人がアラブ城壁を拡張し王宮として作り替え、政治の拠点としたのが始まりとなっています。 ノルマン王朝の後を引き継いだホーウェンシュタウフェン家も、この王宮を根城に国政を行い、フェデリコ2世の時代には当時ヨーロッパ最高の水準を誇る文化が花開いた場所でした。しかしホーウェンシュタウフェン家の衰退やシチリアの地位低下に伴い荒廃してしまいました。1555年にスペイン総督の居宅として改修されることで、息を吹き返し今に至っていると行った感じです。現在見ることのできるノルマン王朝の時代に作られた建築の面影は、この時の改修時に作られたファザードの右脇を固めるピサーナ塔を残すだけとなっているようです。 現在、ノルマン王宮にはシチリア州議会が行われており、再び政治の中枢機関に返り咲いています。内部の見学は、パラティーナ礼拝堂と王家の居室だけとなっていますが、両者とも素晴らしくパレルモを訪れたならば、是非見に行かなければならない場所と言えるでしょう。 パラティーナ礼拝堂 インディペンデンツァ広場側にある入口から王宮に入り、中庭から続く大きな階段を上っていくと、そこにはとても壮大なパラティーナ礼拝堂(cappella Palatina)があります。パラティーナ礼拝堂は、ノルマン王朝のルッジェーロ2世の命令で1132年に着工し、1140年に完成した礼拝堂で、王宮の二階部分にあり、その外側は柱廊となっています。礼拝堂の柱廊に面した壁面は、色鮮やかなモザイクで彩られるのですが、残念ながらノルマン王朝時代のものではなく、19世紀に製作されたものに置き換わってしまっています。礼拝堂の入口の木製扉の上にあるモザイクの中に、一組みの男女の肖像がメダルの中に描かれているのですが、これは、ブルボン家のフェルディナンドとマリア・カロリーナの肖像だそうです。ちょっと見にくいですが・・・。 礼拝堂の内部は、圧巻の一言につきます。大きな礼拝堂という空間の、床、壁、天井のあらゆる空間にすき間なくモザイクが施されており、その黄金のモザイクに圧倒されそうになります。ノルマン王朝時代の名残を色濃く残している内部のモザイクの中でも、ビザンチン様式の伝統に則った内陣部のモザイクはもっとも古く1143年の作とされています。またモザイクではないのですが、三廊式の中の身廊の天井も最も古い作品で、内陣のモザイクと同時期にアラブ人によって制作されたものと言われています。内陣に程近い右側にある、模様の施された円柱に支えられた豪華なモザイクのある説教壇や植物模様や人物・動物が描かれた復活祭用燭台もとても古く、12世紀には制作されていたようです。 これらの素晴らしいモザイクは、コンスタンティノーブル(現在のイスタンブール)、ラヴェンナと並んで、キリスト教美術の三大傑作と称されているくらい、とても素晴らしい作品です。本当に素晴らしいですよ。 王家の居室 パラティーナ礼拝堂の上階には、王家の居室(appartamenti reali)と呼ばれる場所があります。ここを見学するには、所定の時間に集合し、ガイド付のグループで見学することになります。ここは、現在シチリア州議会場として使われているため、見学できる場所も限られているからなのです。 見学のメインは、別名ヘラクレスの間(sala di Ercole)と言われている議会の間(sala del Parlamento)とルッジェーロ王の間(sala di re Ruggero)の二ヶ所です。議会の間は、1560年から70年にかけて作られ、1799年には壁にフレスコ画が施されたそうです。1947年からは、ここで州議会が行われるようになっています。別名にもなった「ヘラクレス」は、右手に棍棒、左肩には獅子の皮を担いだ姿で、天井に描かれています。また壁のフレスコにも、ヘラクレスの物語が描かれているのですが、これらはモノクロで描かれておりとても珍しい感じがします。 もう一つの見学のメイン、ルッジェーロ王の間は、一面モザイクに覆われた部屋で、壁の上部は一面金色のモザイクで覆われており、ライオンやシカ、ヒョウ、くじゃくなどの様々な動物たちが描かれています。また、天井にも、ライオンやケンタウルスが描かれていて、どことなくアラブの雰囲気が漂い、パレルモの歴史や文化の多様性を感じさせる部屋となっています。 これら議会の間とルッジェーロ王の間を結ぶ部屋には、更に奥に進む通路があり、その壁には、ティツィアーノの絵画が飾られています。残念ながらこの先に進むことは出来ませんが・・・。 ノルマン王宮の周囲 ノルマン王宮の前に広がるヴィットリア広場(Piazza della Vittoria)は、1820年にブルボン家の駐屯部隊に対し、パレルモ市民が蜂起した場所であり、その結果住民側の勝利に終わったことから、この場所を「勝利(ヴィットリア)広場」を呼ぶようになったという由来を持っています。今ではその様な血生臭い出来事があったという雰囲気はなく、緑豊かな公園になっており、パルラメント広場やインディペンデンツァ広場と併せて、多くの人々が散策する憩いの場所となっています。 ノルマン王宮に寄り添うかたちで立っている大きな門は、ヌオーヴァ門(porta Nuova)です。神聖ローマ帝国の皇帝カール5世の入城を記念して、1535年に建設されたも記念碑的性格を合わせ持つ門となっています。町の中心を走るヴィットリオ・エマニュエーレ大通りの終点ともなっており、その大きさに於いてだけでなく、名実ともに町の玄関口といえるでしょう。またこの門には、とてもユニークな装飾が施されていたり、さらには西側と東側では異なった表情を見せてくれたりと、特徴的な建築物となっています。 サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会 ノルマン王宮の程近くに立てられている、サン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会(San Giovanni degli Eremiti)は、異国情緒漂うとても不思議な教会です。教会の敷地にはヨーロッパ的ではなくエキゾチックな植物が栽培されていたり、イスラム的な中庭があったり、他の都市では見られないような真っ赤な5つのクーポラがあったりと、ここは既にイタリアではないような感じさえします。 この教会が建てられたのは、ノルマン王朝のルッジェーロ2世の時代で、1132年にアラブ人職人達の手によって完成したのです。教会内部はがらんとしていますが、ずんぐりとしている空間はアラブの影響を伺い知ることが出来ます。モスク風の部屋もあったりするのですが、その壁には聖母子像が描かれていたりと、東西(キリスト教とイスラム教)の文化的な融合を見ることが出来ます。 中庭に出ると、強烈な太陽の光を浴びて成長している椰子の木などの緑濃い植物が、沢山生い茂っていて、まるで熱帯植物園に紛れ込んでしまったかのような錯覚に陥ります。中庭は円柱に支えられた回廊の形をしており、イスラムの影響を素肌で感じることが出来ます。ここに座っていると、ノルマン時代のアラブとヨーロッパ文化の融合がはかられた時代に思いを馳せることが出来そうです。 大聖堂 パレルモの宗教の中心である大聖堂(Cattedrale)は、政治の中心であるノルマン王宮の程近く、ヴィットリオ・エマヌエーレ大通り沿いに建っています。宗教、政治の中心が集まっているこの辺りが、かつてパレルモの全ての中心であったことを、改めて実感してします。 この大聖堂は、パレルモの歴史と同じで、様々な異文化を受け入れてきた経歴の持ち主なのです。先ず1184年に、先在したバシリカの跡地に建てられたのですが、一旦アラブ人の手によりモスクに改装され、今度はノルマン人により再びキリスト教会に作り替えられたというように、矢継ぎ早に改築が行われて行きました。その後も度々改修が行われて行ったそうですが、基本プランは創建当時のまま保たれていたようです。 そんな大聖堂に転機が訪れたのは、1781年にフェルディナンド・フーガの設計による改修といわれています。内部の改装が行われ、クーポラが作られることになり、その姿は大きく変貌してしまいました。確かにその姿は、教会と言うにはアラブ風であり、モスクと言うにはヨーロッパ風といった感じがします。アラブとヨーロッパが見事に調和しているので、違和感を感じることはないといったところなのでしょう。 現在は、創建当時の部分として後陣部分が残されています。またそれ以後、13世紀のものは柱廊の扉口の上のモザイク、14〜15世紀のものはファザード、16世紀のものは左側面の柱廊、19世紀様式のものは鐘楼と、その時代時代の建築様式が今にその姿を伝えています。パレルモの大聖堂は、様々なの文化と歴史を受け入れながら、今日まで生きながらえてきた、まさにパレルモの生き証人といえるでしょう。 様々な様式を見せる外観に比べ、内部の方は18世紀に大改装されていて、あまり評判は良くない・・・、らしい。そんなことは脇に置いておいて、先ず入口すぐのところにある礼拝堂には、パレルモを統治してきた代々の統治者たちが眠っています。「皇帝と王の霊廟」と呼ばれるこの場所には、大きな棺が安置されています。一列目の右の柩がハインリッヒ6世、一列目の左の柩がフェデリコ2世、二列目の右の柩がフェデリコの母であるコスタンツァ王妃、二列目の左のルッジェーロ2世と、錚々たるメンバーがここに眠っているのです。他に、パレルモ市民の信仰を集めるある場所があります。それは守護聖女である聖ロザリアの聖遺物を納めた聖ロザリアの礼拝堂です。内陣の右側にあり、聖ロザリアを記念したお祭りに使われる御輿が安置されているので、すぐにわかるでしょう。この礼拝堂に来ると、パレルモ市民の聖ロザリアに対する信仰心の厚さを感じることが出来ます。 また、宝物館には、コスタンツァ王妃の王冠が展示されており、そのまばゆいばかりの美しい宝石に、誰もが息を呑んでしまう程、芸術品としての完成度が高く美しいです。 パレルモのへそ パレルモのへそとは、旧市街地のほぼ中心に位置するクアットロ・カンティ(Quattoro Canti)のことを指しています。クアットロ・カンティとは「四つ辻」を意味しており、旧市街地の南北の目抜き通りであるマクエダ通りと、東西の目抜き通りであるヴィットリア・エマヌエレ大通りが交差して出来る交差点のことでもあるのです。この交差点には、それぞれの四つ角に位置する建物の装飾がとても素晴らしいことで有名です。それぞれの建物の装飾は、この交差点を境に四分割されている町の様子を象徴していると言われています。スペイン総督によるバロック都市計画の一環として、1608年にローマの建築家ジュリオ・ラッソによって建築され、1620年に完成しました。当然ながら装飾はバロック様式をしており、四つ角の装飾はそれぞれが三層に分かれ、下層は四季を象徴する四つの噴水、中層はカルロ5世、フィリッポ2世・3世・4世らのスペイン総督、そして上層には町の守護聖女である聖クリスティーナ、聖ニンファ、聖オリーヴァ、聖アガタの像で装飾されているそうです。ちなみに我々が訪れたときは、改装中で見られませんでした・・・、残念。 クアットロ・カンティのすぐそばにあるプレトリア広場(Piazza Pretoria)には、神を表した像や動物の像などを配置した大きな噴水、プレトリアの噴水が鎮座しています。 この広場の南側に面した建物、市庁舎の脇を通り抜けると、ベリーニ広場に通じ、広場に面した二棟の特徴的な建築物が目に入ってきます。左がマルトラーナ教会で、右がサン・カタルド教会です。 マルトラーナ教会(Martorana)は、1143年にルッジェーロ2世の海軍総督ジョルジョ・ダンティオキアの要請で建てられました。一見ちょっと小さく、薄汚れた教会(なんて言ったら失礼ですが)の様に見えますが、実はかなり由緒正しい教会なのです。その由緒正しさは、一旦中に入るとわかる気がしてきます。内部はまばゆいばかりのモザイクが、教会中を埋め尽くしているからです。このモザイクは、ビザンティンの最も純粋で伝統的な様式を受け継いでおり、パラティーナ礼拝堂に負けないくらい素晴らしいものです。教会内部の構造も、正方形をしたギリシア十字プランをしており、小さいながら特別な教会であることが伺い知れます。また、創建当時の建築を鐘楼に見ることが出来ます。 サン・カタルド(San Cataldo)教会は、マルトラーナ教会と同じノルマン時代の1160年頃に建築された教会で、先に紹介したサン・ジョヴァンニ・デリ・エレミティ教会と同様に、3つの赤い丸天井を頂いた奇抜な外観をしている、アラブ風の建築となっています。内部の壁面はモザイクで装飾されることはなく、隣のマルトラーナ教会と比べると簡素な印象を受けます。
新市街の整備は、ブルボン家による統治の際に一気に進み、カブール通りの北側まで一気に拡大していきました。新しく開発された地域であるために、歴史的建造物はあまり存在しないのですが、その様な中でも、パレルモを、いやシチリアを、いやいやイタリアを代表する素晴らしい劇場が存在するので、見学コースから外すわけには行きません。 マッシモ劇場(Teatro Massimo)は、イタリアで1・2を争うほど有名な劇場で、「マッシモ(最大)」の名の通り、その面積は7,730平方メートルもあり、ヨーロッパでも最大規模を誇っています。1875年にジャンバッティスタ・フィリッポ・バジーレの設計により着工され、その息子エルネストが1897年に完成させました。ギリシャ神殿を思わせるようなファザードと、アラブ風な佇まいを残した円天井、そしてシチリアの強い日差しを受けて日焼けしたかのような独特の茶褐色をした石を使った胴体部、全ての部分が多様な文化の交流をはかってきたパレルモという町を体現しているようです。内部は五層のボックス席と天井桟敷席を備え、3,200人もの客席数を誇っています。是非オペラシーズンにその豪華な内装を素晴らしいオペラと一緒に楽しんでみたいところです。オペラには興味がないが中は見てみたいという人には、英語によるガイド付の見学ツアーもあるので、劇場に問い合わせてみるとよいでしょう。英語も苦手で見学ツアーもちょっと、と尻込みしてしまう人は、とりあえず実際に外観を眺めて、内部の方は映画「ゴッドファーザー3」を見ながら、想像の翼を広げてみてはいかがでしょうか。 また新市街にはマッシモ劇場ほど有名ではないにしても、なかなか豪華な劇場が、新市街のへそとも言うべき大きな広場に面した場所に鎮座しています。ポリティアーマ劇場(teatro Politeama)は、凱旋門のようなものが正面に大きく張り出し、その上にはブロンズ製の4頭立て二輪馬車がおかれています。 その規模こそマッシモ劇場には及ばないものの、その堂々たる姿はまったく見劣りすることはありません。マッシモ劇場とほぼ同時期の、1874年に完成しています。
州立考古学博物館 州立考古学博物館(Museo regionale archeoogico)は、新市街に近いローマ通り沿いに建っています。ただ博物館の入口は、ローマ通り沿いにはなく、裏手の広場に面した小さな入口なので見落とさないようにしましょう。この博物館は、19世紀初頭にパレルモ大学の附属博物館として発足し、1866年に現在の場所に移転しました。現在博物館として利用されている建物は、17世紀に建設された旧オラトリオ会修道院のものです。 入口を入ると、そこには先ず中庭が広がっています。中庭の中央には、18世紀に作られたトリトン像の泉があります。中庭は回廊に囲まれており、そこには海底から出土した品々が展示してあります。この博物館には、セリヌンテから出土した建築や彫刻の破片、そして碑銘などのものが多く展示してあることで知られています。そのセリヌンテからの出土品は、一階の最初の展示スペースに数多く展示されています。 最初のお出迎えは、ライオンの頭を型どった放水管です。これはライオンの口から水が流れ出る仕組みになっているもので、カルタゴに勝利したのを記念して紀元前480年作られたイメーラのヴィットリア神殿から出土したものだそうです。更に奥へと進むと大広間があり、ここにもセリヌンテから出土した品々が沢山展示してあります。C神殿から出土した紀元前6世紀半ば頃のメトープには、ヘリオスの4頭立て二輪馬車、メドゥーサを退治するペルセウス、ヘラクレスとケルコペスが表されています。F神殿から出土したメトープは、オリュムポスの神々と巨人族ギガンデスの戦いが表されています。E神殿から出土したメトープは、紀元前460年から450年頃のもので、それぞれアマゾン族と戦うヘラクレス、ゼウスとヘラの結婚、アルテミスとアクタイオン、エンケラドスと戦うアテナを表しています。そして、中央には、通称「セリヌンテの青年」の呼ばれている紀元前5世紀のギリシアのブロンズ像が展示されています。 二階に上がると、そこはシチリア各地から集められた青銅製の作品で一杯です。親指くらいの小さいものから人間の実物大くらいの大きなものまで大小さまざまな、そしてモチーフも様々な青銅製の作品が、所狭しと展示されています。大きなものでは、シラクーサから出土したブロンズ像牡羊と、ドッレ・デル・グレコで出土したものを古代ローマ時代に模刻した牡鹿を倒すヘラクレス像などが有名です。これらの作品は2000年前以上前の昔に作られたものとは思えないほど、生き生きとしているのには驚かされます。 三階には、シチリア各地で出土した先史時代の壺や武器などと共に、ギリシア陶器が展示されている。そして、最後の展示室には、パレルモで発見された帝政ローマ時代のフレスコ画オルフェウスと動物達が、展示されています。とても大きな作品で、ここでもまた様々な動物達がありのままにそして生き生きと描かれていることに驚いてしまいます。 州立美術館 州立美術館(Galleria regionale della Sicilia)には14〜16世紀の作品が収蔵されています。アッローロ通りに面した入口を入ると、強い太陽の光を反射して青々とした芝生が生い茂る中庭が現れます。この中庭を囲むような形でギャラリースペースは広がっています。 美術館内部は一階と二階に分かれており、一階には、主に彫刻が展示されています。その中でも、アントネッロ・ガジーニの手になる聖母子像やブオン・リポーゾの聖母や、アントネッロ・ガジーニの授乳の聖母、フランチェスコ・ラウラーナの1471年頃の作品アラゴン家のエレオノーラの胸像が有名です。特にエレオノーラの胸像は、その人物的な質感までも表現しきっているようで、とても繊細で美しいです。そして15世紀半ばの作品であるモザイク画死の勝利も忘れてはいけません。王宮と目と鼻の先に位置するスクラファーニ館から移設されたもので、壁一面を覆うとても大きな作品は、一階から二階に吹き抜けた広間に展示してある程です。タイトルの示すように、人々の死とそれを嘆き悲しむ人々描かれており、中心に位置する馬に乗っている骸骨の姿を見ると、あまり気持ちの良いものではないかも知れませんが。 二階には、主に絵画が展示されており、14〜15世紀頃のイタリア人画家の手になる板絵が、多数収蔵されています。その中でも是非見ておきたいのが、アントネッロ・ダ・メッシーナの代表作の一つ受胎告知のマリアです。受胎告知と言えば、聖母マリアと受胎告知する大天使ガブリエルが相対して描かれることが多い中で、告知を受ける聖母マリアの敬虔さを描ききった傑作と言えるでしょう。
ジーザ 新市街にあるマッシモ劇場から西へ歩いて30分くらいの所に、ジーザ(Ziza)と呼ばれる不思議な建築物があります。ジーザとは、アラビア語の「輝かしい」という意味を表すアシスに由来するそうなのですが、その名の通り、シチリアに注ぐ強烈な日差しを浴びて外壁の材質に使われている石が黄金に光輝くような印象をうけます。ノルマン時代に建てられたイスラム建築の宝石と言われいて、現在でもその存在を讃えられています。 もともとは、ノルマン王の別邸として建てられたもので、グリエルモ1世によって着工し、グリエルモ2世の治世中1165年から67年に完成しました。かつては、建物の周囲は庭園に囲まれていたそうなのですが、今は建物の前面に青々とした芝生が敷いてあるばかりで、後は住宅に囲まれてしまっており、当時の姿を見ることは出来ません、残念ながら。しかし、茶色い岩肌をあらわにした建物は、今でも芝生の先に、どっしりと鎮座しており、存在感を表しています。 建物の内部は、かつてのアラブ風の装飾は見ることができないものの、所々うっすらと彩色のあとが残っているので、完成当時の姿に思いを馳せることは何とか可能でしょう。建物の中は、三階に分かれており、天井の低い部屋があったり、吹き抜けの部屋があったり、また、広間のような大部屋があったり、居室のような小部屋があったりと、様々な部屋が混在しています。それは改造と転用が繰り返されたために、公用のスペースや使用のスペースが各階に入り乱れてしまったためだそうです。 部屋の随所には、発掘された道具なども展示されており、当時の人々の生活を思い浮かべることが出来ます。しかし、なんといっても、一階にある、「建物の中にある中庭」のようになっている場所が一番素晴らしいといえるでしょう。そこは、泉の間と呼ばれ、かつてはお客様を迎え入れる場所だったところです。鍾乳石飾りやモザイクで装飾されており、他の部屋とは比べものにならないほど広く、天井は吹き抜けになっているので、ダイナミックな空間になっています。 カタコンベ もうひとつ、見学に自信のある人のみにお薦めなのが「カタコンベ」です。カプチン会修道院の隣にある地下墓地なのですが、ここには約8000体の遺体が安置されています。イタリア各地にカタコンベはあるのですが、ここはその数とリアルさに圧倒されてしまうでしょう。しかし、ここはあくまで「死者と対面し、自らの生を顧みる」為の場所であるから、言動には気を付けて見学することが必要です。また、見学時に必ず喜捨をすることをお忘れなく。
この間お祭りの期間中は、町中がイルミネーションで飾られ、海岸での花火大会が行われたり、聖女ロザリアを奉った御輿が、ブラスバンドや聖職者によって作られた行列に導かれて町を練り歩きます。あくまでも、宗教行事であるので、御輿が町を練り歩く際は、人々は神妙な面もちで祈りを捧げていますが、花火大会の方はと言うと、こちらは大いに楽しもう!と言った主旨であるようです。やはりお祭りは楽しまなければ!
そして、心ゆくまで魚介料理を楽しんだ後には、お待ちかねのデザート。パレルモのバールでは、色とりどりのドルチェがウインドウに並んでいます。それも、とってもおいしそうなものがいっぱい並んでいるのです。なかには、シチリアの太陽のように、その強烈な色彩に毒々しさを感じて食欲をそそられないものもあるのですが、リコッタ・チーズを使ったカンノーロなどはさっぱりとした味で、とってもおいしいですよ。
パレルモでは、都市規模の割に公共の交通機関があまりよく整備されていないという事情があるために、通勤手段として車がよく使われています。そのために朝の出勤時、昼食を取りに家に帰宅するとき、午後の出勤時、夕方の帰宅時、が渋滞が発生する時間となります。ということは、この時に車を運転しなければ、早い話何の苦労もしないわけですが、そうは言っていられません。 先ず渋滞を乗り切るための大きなポイントは、なるべく大通りを通ることです。車線数の多い大通りだと、信号がちゃんと機能しているのです。大きな交差点には、警察官が交通整理をしているために、ちゃんと信号が機能するだけでなく、皆それに従っているのです。 それと反対のことになるのですが、あまり大通りをはずれないことが大切なことです。交差点には車が殺到し、信号は一応動いてはいるようですが、全く関係なく皆が突っ込んできます。多分、日本からいきなりこんなところに放り出されたら、適応できる人はそれほど多くないはずです。もう車ギリギリで・・・、すごい光景です。これが、市街の中心地であればそうでもないのです、ちょっと周りの団地地域となると、もう最悪。間違ってもこのようなところには迷い込まないように注意して下さい。ちなみに我々迷い込みました・・・。かなりエキセントリックな体験です。 |