セリヌンテの町 全都市表示 サイトマップ トップへ

セリヌンテ

Selinunte

 モディオーネ川とコットーネ溝に挟まれた平坦な土地に築かれた町セリヌンテ。シチリアにおけるギリシャ人植民都市の中で最も西に位置し、紀元前五世紀くらいに非常に発展していた町です。セリヌンテという町の名前は、都市のシンボルともなっている、野生のパセリに由来するという説もあったりします。
 町が海沿いに築かれているために、広がりのある空間的開放感を感じます。また空間的開放感に加えて、遺跡を散策していても波音や波音に混じって聞こえてくる海水浴を楽しむ人の歓声が聞こえてき、精神的な開放感も感じられるようなロケーションです。


■セリヌンテへのアクセス
 先ず、セリヌンテはどのような方法を選ぶにしても、アクセスが便利ではありません。困ったものです。車を運転してアクセスするにしても、高速道路出口から結構はなれているので、道路標識を頼りに運転しても、その標識がなかったりで道に迷ってしまったりします。公共の交通機関を利用するにしても、近くの町を経由しないといけないので、手間と時間がかかります。それでも、是非訪れてみる価値のあるところですので、是非頑張りましょう。
 さて、車を運転してアクセスする人は、とにかく「カステルヴェトラーノ(Castelvetrano)」を目指しましょう。パレルモ、トラーパニ、マルサラなど島の北〜西の方面からアクセスする人は、高速を利用してこの町を先ずは目指しましょう。そしてこの町からはひたすら、持参した道路地図、もしくは道路標識を頼りにしてセリヌンテを目指しましょう。アグリジェント方面からアクセスする人は、先ずはシャッカを目指し、その後はやはりカステルヴェトラーノを目指しましょう。アグリジェント方面からアクセスする場合は、カステルヴェトラーノに行く手前でセリヌンテに到着します。どこからアクセスするにせよ、一般道をしばらく運転しなければならないので、道路標識に注意して運転する必要があります。
 公共の交通機関を利用する場合は、鉄道であれバスであれ前出のカステルヴェトラーノを目指すのが良さそうです。その上で、鉄道のカステルヴェトラーノ駅前からマリネッラ・ディ・セリヌンテ(Marinella di Selinunte)行きのバスに乗れば、何とかたどり着けます。バスは途中遺跡の入口に停車するようなので、そこで下車しましょう。ただし、このバスの運行本数がそれほど多くなさそうなので、余裕を持ってスケジュールを組むか、出来れば事前に運行時間がわかればいいですね。


■セリヌンテの見どころ
 セリヌンテの見どころは、古代都市「アクロポリス」とその東側に隣接する東神殿群の二ヶ所といって差し支えないと思います。チケット売場が遺跡の東側にあるので、必然的に見学は東神殿群からスタートすることになると思います。そしてアクロポリスに向かうことになると思いますが、この二ヶ所、結構離れているのです。距離としては2km弱の道のりといったところでしょうか。歩くと相当辛いので、クルマできた人は車道を運転して行きましょう。

東神殿群
 コットーネ溝の東側に隣接する東神殿群は、セリヌンテの町が発展していた紀元前五世紀ころに建築されており、当時の町の勢いを知ることが出来る記念碑的な建造物です。この神殿群、現在の発掘範囲で三棟の神殿が確認されています。ここで「現在の発掘範囲で」と書きましたが、その発掘範囲は限定されていて、未だ神殿群の全容が解明されるにいたっていません。全容が解明されていないために、どの神殿がどのような神に捧げられたものであるかを特定することが出来ないでいるようです。そのためにこの三棟の神殿はアルファベットで表記されているのです。
 遺跡入口を入り、期待に胸を躍らせ小道を進むと、小道の向こうの木々の間からひとつの神殿が見えてきます。最初に見えてくる神殿、これがセリヌンテの神殿の中で最も修復が進んでいるE神殿です。
 女神ヘラに捧げられたと考えられているE神殿は、ドーリア様式にのとった、正面が六本の周柱式神殿となっています。前出のように修復が進んでおり、1950年代半ばの修復で相当のレベルで復元されており、古代の威風堂々とした姿を我々に見せてくれます。神殿内部には、プロナオス(前室)オピストドモス(聖像安置室の後部)があります。ちなみに、このE神殿から出土した以下のメトープが、パレルモにある州立考古学博物館に展示されています。「アマゾン族と戦うヘラクレスゼウスとヘラの結婚アルテミスとアクタイオンエンケラドスと戦うアテナ
 E神殿から北の方向を眺めると、円柱のすき間から瓦礫の山が見えてきます。この瓦礫の山こそが、残りの二棟の神殿なのです。
 E神殿のすぐ北側にあるのがF神殿です。東神殿群で発掘されている三棟の神殿の中では、最も規模が小さく、そして最も残されたものが少ない神殿でもあります。ちなみに、このF神殿から出土したメトープが、パレルモの州立考古学博物館に展示されています。
 最も北側に位置するのが、東神殿群の中で最大のG神殿です。113.24m×54mと古代の最大級の建築のひとつに数えられており、ゼウスに捧げられたと考えられています。最大級の神殿とはいえ、実際にあるのは1832年に修復された大円柱が瓦礫の中にポツンと立っているだけなので、なかなかその全容を想像することは容易ではありません。
 さて、東神殿群がここまで修復が進まないのは、その損壊が激しいことを一つの理由に挙げられるでしょう。そしてその損壊は、この町が経験してきた歴史そのものということが出来るでしょう。その歴史を簡単に紹介すると、紀元前650年頃に建設されたセリヌンテは、その後順調に発展し、神殿群を建造するほどの力を持つギリシャ植民都市となっていたのですが、紀元前409年のカルタゴ軍の襲撃を境に衰退していったのです。しばらくの交戦状態の後、カルタゴによる町の支配が続き、紀元前250年には人々はこの町を捨ててしまいました。その後のビザンチン時代に起きた大地震により残っていた建造物も倒壊し、まさに瓦礫の山となってしまったのです。その後は、格好の採石場として利用され、神殿の建材は次々と持ち出されてしまったのです。

アクロポリス
 モディオーネ川とコットーネ溝の間、城壁に囲まれた台地がアクロポリスです。アクロポリスへは、前出のようにクルマできていれば運転していきましょう。チケット売場前の脇からが延びているので、ここを進んでいきましょう。クルマできていない場合は、諦めて東神殿群から歩いていきましょう。途中までは舗装された道もありませんが、人が歩いて出来たであろう道のようなところがあるので、そこを歩いてアクロポリスを目指しましょう。
 アクロポリスに近づくと道は上り坂になり、その坂の上の方に、台地を囲むような城壁と上から覗く神殿が見えてきます。ちなみに、現在見ることが出来るこの城壁、町の創建当時のものではなく、紀元前409年のカルタゴの襲撃の後に、限定した地域を守るために狭く作り直された城壁だそうです。とても頑丈な城壁で、今でも階段状の形状がはっきりとしています。
 城壁内部にはいると、いよいよアクロポリスです。今まで通ってきた道をそのまま道なりに進むと、アクロポリスを南北に走っている目抜き通りにたどり着きます。この通りアクロポリスの幹道の一本で、この通りから東西に路地が伸びています。この目抜き通りの緩やかな坂道を上っていくと、右方向に修復途中の大きな建造物が見えてきます。この大きな建造物はアクロポリスの内部に建てられた神殿のひとつで、その中でも最大規模かつ最古の歴史を誇っているC神殿です。このC神殿はアクロポリス内の神殿では最も修復が進んでおり、1925〜27年の修復によって14本の円柱が立てられおり、全体の構造を想像することもできるようになってきています。ちなみに、このC神殿から出土した三枚のメトープが、パレルモの州立考古学博物館に展示されています。
 アクロポリス内部には、今紹介したC神殿の他に、A神殿、B神殿、D神殿、O神殿・・・と様々な神殿が建造されていました。ただ前出のように、損壊がひどく、修復も進んでおらず、残念ながら多くの神殿はその基部のみを知ることが出来る程度に留まっています。それでもそんな神殿や住居跡を味ながらアクロポリスを歩いていると興味深いものです。そんな散策の途中には是非、東側の城壁の上に行ってみましょう。ここから見る東神殿群は、神殿が壊れてしまっているために、古代の住人が見た風景とは異なっているでしょうが、その雰囲気は十分に感じとることが出来ます。
 南北の目抜き通りをずっと歩くとアクロポリスの北端にたどり着き、そこで複数段の長い通廊からなる大規模な要塞建造物を見ることが出来ます。この要塞はアクロポリスの北面すべてを覆っているほど東西に長く大規模なものです。実際に通路後などを歩くことが出来ますが、これが複数階からなる建造物であることを説明書きで見るとその規模に改めて圧倒されることでしょう。セリヌンテ健在の頃は、この要塞建造物の北側に広大なセリヌンテの町が広がっていたそうですが、残念ながらカルタゴ軍によって破壊され、現在ではその面影を見ることは出来ません。
 そうそう、この要塞から南北の目抜き通り越しに見るセリヌンテの海も、これまた格別です。

本サイトに掲載されている画像や文章など、全てのコンテンツの無断転載及び引用を禁止します