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カステル・デル・モンテ
Castel del Monte

 緑豊かな大地に、ぽつんとそびえ立つ土色の建造物、カステル・デル・モンテ。この城は、構造の全てが「8」という数字に関係しているという、謎に満ちた建造物なのです。さらに、何のために作られたのか、どうしてここに建てられたのか、詳細はいまだ明らかになっておらず、更に謎を深めているのです。ただ一つだけわかっていることは、当時「世界の驚異」と言われた、神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世によって建てられたものである、ということだけです。この謎に包まれた建造物は、あまり知られていないイタリアの中世末期の状況を、私達に伝える役目を担っていると言うことができるかもしれません。

■謎の城『カステル・デル・モンテ』
 バリ県下、肥沃な農地の広がるアンドリアの近郊、標高540mのなだらかで見通しの良い丘の頂きに、8角形の塔を8つめぐらせ、8角形の中庭を持つ、8角形の中庭を持つ8角形の筒城の城が、ぽつんと立っています。これこそが、カステル・デル・モンテです。
 神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世の人物像を象徴するかのように、とても謎に満ちています。まず、この城は何のために作られたのかが謎なのです。堀割、砲座、狭間、厩舎、兵営などの軍備施設がまったくないのです。これでは敵の来襲に対して、防衛も攻撃もする事が出来ません。また、城内の螺旋階段は、全て上に向かって左回りに作られていますが、この構造では、侵入者に対して、剣を右手に持って防戦することが出来ないのです。また、この城が使用された記録として、1249年に庶出の皇女の結婚式があるのですが、この城には、祝宴を開くための厨房設備が十分ではないのです。
 もう1つの謎は、この城が、徹底して「8」という数字にこだわっている点を挙げることが出来ます。8角形の建造物といえば、洗礼堂、聖地エルサレム、皇帝礼拝を思わせるラヴェンナのS. Vitale教会があげられたりしますが・・・。また「8」という数字は、風位と宇宙的均衡を示し、イスラム世界においては、天国を寓意する数字だそうです。フェデリコ2世は、幼少の頃から天文学や数学に特に強い関心を示していただけあって、数字のもつ意味に強いこだわりがあったということを聞くと、何やら深い意味がありそうですが、今となっては全て推測するだけしか出来ません。
 真東を向いた玄関の縦横の長さは、五芒の星に基づく黄金北によっていて、これはルネッサンスの先駆けと言えるそうです。また、5つずつある暖炉と雨水溜は、「火」と「水」を表しているそうです。建物の影は、春分と秋分の正午になると、中庭の縁までを満たすようになっています。また夏至の時には、中庭のちょうど真ん中の天空に、中世の北極星ヴェガが現れるのです。合理的な知識人でありながら、占星術や予言を畏怖していたフェデリコ2世は、この城の設計に当たって、スコットランド人の天文学者を招いたと言われています。
 フェデリコ2世の死後、この地を支配したアンジュー家のシャルルは、その孫達を20年に渡り、この城に幽閉してしまいました。ホーウェンシュタウフェン家の衰退と共に、この城も忘れられ、内部を飾っていた多くの装飾品は、はぎとられ、持ち去られてしまいました。近世になると、荒廃が一層進み、山賊のすみかになっていた時期もあったそうです。19世紀末に、イタリア統一国家がこの城をただ同然で買い取り、修復し、そして1996年に、ユネスコの世界遺産に登録されるに至っています。

■城の主『フェデリコ2世』
 この謎の建造物、カステル・デル・モンテを作ったフェデリコ2世は、13世紀に南イタリアを手中に収めていました。
 彼の両祖父は、シチリアを伯領から王国に昇格させ、南イタリアをも所領に加えた知謀の持ち主ノルマン王ルツジェーロ2世と、イタリアの制圧に執着しながらも、十字軍に出征して戦没した、勇猛果敢なホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ「赤ヒゲ」帝の2人であったために、フェデリコ2世自身、生まれながらにして広大な所領と権力を手にする可能性を持っていました。ノルマン王家に直系する子孫が途絶えた時、ルツジェーロ2世の娘と政略結婚をしていた赤ヒゲ帝の息子、ハインリッヒ6世は、戦争を起こしてシチリアを奪取してしまいました。まさにその時の1194年、フェデリコ2世は誕生しました。
 彼は、幼くして両親に先立たれてしまったために、家臣たちによって、アラブ風の空気漂うパレルモで育てられたそうです。その後、教皇を後見人として成人し、さらに教皇の縁結びによって、アラゴン家の王女を娶ったのです。ドイツ帝を勤めた後、1220年に帰国すると、神聖ローマ帝国の皇帝として即位しました。ただし即位後も教皇に要請された十字軍に、すぐには出征せず、戦略的な考えから拠点を現在のプーリア州に置いて、自らの居をフォッジアに構えました。そして、中央集権化を図るために、バルレッタ、トラーニ、ブリンディシなどのノルマンの地を、改造・強化するという策を実行していきました。
 フォッジアを北西にバスで数十分行くと、ローマ時代の円形劇場の残る町、ルチェーラがありますが、フェデリコ2世は、この町にシチリアのイスラム教とを入植させて、彼らによる軍隊を組織しました。また、その町外れには、4角形の外観をした3層構造で、3層目に8角形の中庭をもつ、フェデリコ2世の建てた城があります。これもまた「8」という数字に関係しているのです。ちなみにフェデリコ2世の建てた城は、どれをとっても、基本的に4角や8角などの幾何学的プランを持っています。シチリア島、シラクーサのカステル・マニアーチェや、カターニャのウルシーノ城、プラートの城などは、4角形をしています。「4角形」とは、古代ローマの兵営に遡ることができ、その後、アラブとビザンチンに継承された形態的伝統でした。
 フェデリコ2世は、十字軍遠征を何かと理由を付けて断っていたのですが、とうとう教皇に急かされて、1228年、エルサレムに赴くことになりました。しかし、戦争で決着を付けるのではなく、交渉で決着を付け「エルサレム開城」という目的を果たし、晴れてエルサレム王となって、イタリアに帰国しました。しかしそのようなフェデリコ2世を待っていたのは、意外にも教皇の怒りでした。教皇は、異教徒に戦いを挑まなかったという理由でフェデリコ2世を破門してしまいました。この教皇はフェデリコ2世の後見人でありながら、その成長を快く思っていなかったので、これを機会につぶしにかかったために、このような事態となってしまったのです。
 当時のキリスト教の権力は強力なものであったので、「破門」という処分は、フェデリコ2世にとって致命的でした。これを機にフェデリコ2世の勢力は衰え、自身も1250年、フォッジアで狩猟中に腹痛に襲われ、命を落としてしまいました。56才であった。彼の死後、息子マンフレディと、孫のコンラディンは、教皇からシチリアの王位を購入したアンジュー家のシャルルに相次いで打ち負かされ、ホーウェンシュタウフェン家の血統は、断絶させられてしまいました。
 フェデリコ2世は、キリスト教会から「異端者」扱いされてきたので、その面影を伝えるものはほとんど残っていません。しかし、彼が十字軍遠征でエルサレムを訪れたときの様子を、あるアラブ人は、次のように記録に残しています。「神聖ローマ帝国の皇帝は、貧弱な肉体の持ち主で、奴隷市場では安値しかつかないだろう。」

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