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バルレッタ
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Bari

 アドリア海に面しテッラ・ディ・バーリの北端にバルレッタはあります。この町は、中世に、バーリ近郊のアドリア海沿いの様々な町と同じように、東方貿易で栄えていました。その後、ホーエンシュタウフェン家のフェデリコ2世がここに城を築いて拠点の一つとして居を構えた事などが歴史的な特徴としてあげることが出来ます。
 一方、外国人から現在という視点で見てみると、それ程特筆すべきところは内容に思えますが、実は、イタリア統一に取り上げられたイタリア国民の結束の第一歩を踏み出したという重要な事件で語り継がれている町なために、イタリア人にとっては欠かすことの出来ない町となっています。

■バルレッタの見どころ
 バルレッタも他の町と同様に、旧市街地と新市街地からなっており、その見どころは旧市街地に集中しています。他の町と比べて、特筆すべき見どころは少ないようですが、その中でもいくつかの町の特徴を紹介して行ければと思っています。

サント・セポルクロ聖堂
 町を横断する一連の大通りとも言える、ヴィットリオ・エマヌエレ2世大通りと、ガリバルディ大通りの交差点に建っているのが、サント・セポルクロ聖堂です。12〜13世紀という比較的古い時期にブルゴーニュ=ゴシック様式で建設されたという歴史を持つ聖堂です。
 この教会の脇、ヴィットリオ・エマヌエレ2世大通り沿いには、上に写真で載せているコロッソ(巨人)が建っています。このコロッソは古代彫刻という視点では最大級のブロンズ像で、ローマ帝国末期の皇帝の像と言われており、もともとは東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブル製のものだそうです。
 なぜこのコロッソがここにあるかは、諸説あるようで、馬でコンスタンチノーブルから運ばれたといわれていたり、この像の輸送途中の船がバルレッタ沖で難破し、それを引き上げてきたと言われていたりします。

ドゥオモ
 海の近く、ホーエンシュタウフェン家の城のそばに建てられている、ドゥオモは12世紀前半にロマネスク様式で建てられ、その後ゴシック様式で更に拡張されたものです。すぐ脇には鐘楼がそびえ立っています。ファザードの正面の広場が、他の一般的な教会と比べるとかなり狭いように感じ、そのために周辺の旧市街地に溶け込んでおり、旧市街地と一体感をも感じさせるようなドゥオモとなっています。

■バルレッタの決闘
 この町でなんと言っても有名なのが、1503年2月13日に行われた「バルレッタの決闘」です。この決闘は13人のフランス人と13人の「イタリア人」との間で行われたものなのですが、この中世の時代の決闘が非常に重要な意味を持っているのです。それについてここで簡単に触れてみたいと思います。
 まず、この決闘が行われた1503年当時のバルレッタは、その周囲の町を含めて、多くのスペイン人とフランス人で囲まれていました。これは、当時フェデリコ2世によるスペイン統治であった南イタリアの覇権をフランスが奪うために戦争が行われていたためだからでした。そのような状況下バルレッタにはスペイン軍の陣地が設けられていました。
 さて、当のイタリア人はというと、当時のイタリアは今のようなイタリアという統一された国家は存在せず、分割された国々からなっていたために、軍隊もイタリア軍というものは存在せず、それぞれの都市国家がそれぞれの軍隊を抱えるという状況でした。しかもその軍隊もイタリア人によるものではなく、外国人傭兵によるという脆弱な基盤の軍隊だったのです。
 そのような状況下で、バルレッタの高貴なスペイン人のカンティーナ(※現在のCantina della Sfida)で行われていた晩餐間の最中に、捕虜となっているフランス人兵が、酔っぱらった勢いで、イタリア人達に「自分たちで戦わないなんて、なんて卑怯なやつなんだ」といった風にけしかけてきて、決闘をしようと挑発してきたのです。なぜなら、当時のイタリア人はこのような侮辱的な挑発に対しても決闘を受け入れないような腰抜けとして思われていたからだそうです。
 このような侮辱的な挑発に対して、様々な地方出身の13人のイタリア人が、決闘に望み、勇敢に戦い勝利を勝ち取ったというのです。そもそも当時はイタリア自体が都市国家として分裂していたために、「イタリア人」という発想はなく、それぞれの都市国家から選ばれた人が一致団結して戦ったという事が、非常に意味のあることだったのです。それまでは、大国で自国軍を持つスペインやフランスにやられっぱなしだったイタリアも、やれば出来ると言うことを証明した一件ということとして有名となり、語り継がれたのです。
 その重要性を示すように、このことは後のイタリア国家統一の際にも持ち出されて来たほど、イタリアでは有名な出来事なのです。また、国家統一以前にも君主論を記したマキヤベッリも、その著書の中でこの決闘について触れているのです。

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