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フェッラーラ
Ferrara

 フェッラーラは、7世紀にラベンナ総督によって町が建設されており、イタリアの町としては非常に新しい町と言えるでしょう。その後、フェッラーラを含めたこの一帯の地域を統治したカノッサ家により治められた時もありました。ちなみに、このカノッサ家は、日本でも「カノッサの屈辱」として知られている、カノッサそのものです。
 フェッラーラとして栄えるようになったのは、13世紀から始まったエステ家統治のもとのフェッラーラ公国の首都の時代ということができるでしょう。この300年間の間にルネッサンスが花開き、優れた芸術家を輩出し、また三度にわたる都市の拡張により街自体をルネッサンスそのものを体現する街へと変貌させていきました。

■フェッラーラの見どころ
 フェッラーラの見どころは、なんといっても、計画的に建設されたルネッサンス的な街そのものと、その街の中に散りばめられた宝石のような建築物といえるでしょう。
 エステ家がこの地から去った後、この町はやや発展という観点からは見放されてしまったようで、三度目の都市の拡張によって出来た城壁一杯まで町が拡大したのは19世紀になってからだそうです。そのために、町を歩いていると、ハッとするくらい当時を思い起こさせるような古い街並みを見る事があったりします。
 街の規模はそれ程大きくなく、徒歩で十分に見て廻ることが出来ますが、それでも町の見どころを十分に見て廻るには一日では足りないくらい、たくさんの見どころがこの町にはあります。
 まぁ、いろんな楽しみかたが出来るすばらしい町なので、ゆっくりと見て廻りたいものです。

エステ家の城
 町の中心に位置するこの城は、エステ家の城(Castello Estense)と呼ばれており、その名が示すとおり、中世にフェッラーラを治め、都市国家として発展させたエステ家の居城でした。城の建設は1385年、エステ家によってこの町が統治されるようになってからすぐに、ニコロ2世によって始められました。また都市の基盤作りのために、翌年の1386年からは初めての都市の拡張工事を行っています。まさに都市のインフラ整備事業が集中して行われるという、町の発展の初期段階に建てられたものであると言えます。その後、この城が完成したのは16世紀のことでした。16世紀には三度に渡る都市の拡張工事も終わり、エステ家がこの地をまさに去ろうとしていたときであったとは、何とも皮肉的といえるでしょう。
 さて当のお城ですが、赤茶けたレンガ色の外観で統一されており、その建物の周囲を、日本のお城のように、水のお堀に囲まれています。また、ルネッサンス期の築城とあって、無骨な機能重視の要塞的建築物という色彩は薄く、住居用の建築としての色彩を色濃く感じます。お城の中に入るときは、いかにも西洋のお城っぽく、跳ね橋を渡って入ります。現在は、市庁舎としても利用されていて、一部の部屋で、部屋を飾る天井画や庭園を見ることが出来ます。また、夜間には城全体がライトアップされており、町の雰囲気作りに一役かっています。
 カブール大通りを進んで町の中心部に入ってくると、堂々としたお城の姿が見えてくる町の作りを考えると、ここが町の中心であり、町の顔であるとつくづく感じます。きっと町の住人も、自分たちの町の誇りとして毎日の生活の中で見上げていることでしょう。

大聖堂
 先に紹介したエステ家の城がフェッラーラの政治の中心地とするならば、ここ大聖堂はフェッラーラの人々の信仰の中心と言えるでしょう。このお城と大聖堂を中心にこの町は広がりを見せており、この一帯がまさに町の中心ということが理解できるでしょう。
 さて、大聖堂(Cattedrale)は、エステ家支配以前の、12世紀アデラルディ家の時代に建設されました。フェッラーラの守護神サン・ジョルジョを奉っている、中世期を代表する建造物です。ファザードは、大理石を使った3尖塔式で、回廊が何層にも重なるようなユニークな形をしています。
 正面ファザードの入口を入ると、廊下(柱廊玄関)があり、その廊下からさらに聖堂内部への入口があるという、ちょっと他の教会では見られないような珍しい造りです。ちなみにこの大聖堂に併設されている、大聖堂美術館への入口も、この廊下部分にあります。この美術館には、かつて大聖堂内部を飾っていた作品が納められています。
 さて、この大聖堂は、今でも人々の信仰の中心であり、人々は熱心に祈りを捧げています。特に、右手前にある祭壇には、15世紀のフレスコ画「恩寵のマリア」が飾られていて、人々の信仰を集めており、一日中信者の絶えることはない程です。
 最後に再び大聖堂外部についてちょっと補足すると、右後方にそびえる鐘楼は、1441年から1596年にかけて建築されたもので、これもファザードと同じ大理石を使用しており、設計はアルベルティによるものと考えられています。またこの鐘楼の手前の大聖堂右側面には、回廊が備え付けられています。現在ここには店舗が並び、さながらアーケード付の商店街のようになっています。この回廊に面したトレント・エ・トリエスト広場には、多くの露店が軒を連ねています。ここを歩いていると、食べ物から雑貨まで様々なものが売られているので、冷やかし半分で回ってみるのも面白いでしょう。

■中世の街並みの散策
 大聖堂広場にある、1603年に完成した時計塔(Torre dell'orologio)をくぐると、中世の色濃く残る街並みが続きます。ここからは、ゆっくりと歩く速度を落としてカメラ片手に散策してみましょう。

中世の姿をそのまま伝える通り
 ポルタ・レーノ大通りを下って、右手にサン・パオロ教会が見えたら、ヴォルテ通り(Via delle Volte)に行ってみたいものです。この通りは、中世のメインストリートの一つで、当時の姿を最も完全な姿で伝える唯一の場所となっています。石畳が敷き詰められた通りは、道幅が狭く、両脇には家が建て込んでいます。
 ちなみに通りの名前になっているヴォルテとは、建物と建物の間に架けられた陸橋を意味しています。昔はこのあたりをポー川が流れており、その上に架けられた陸橋が、今なお残っていることが、この通りの名前に由来しているのです。

サヴォナローラと第一次都市拡張工事?!
 中世の姿をそのまま伝えるヴォルテ通りを離れて北東方向に進むと、サヴォナローラ通り(Via Savonarola)という名の通りがあります。この名前、聞き覚えがある人も多いことでしょう。そう、このサヴォナローラとは、メディチ家の豪華王ロレンツォ亡き後のフィレンツェの政治を掌握し「虚栄の焼却」を行った、フィレンツェ、サン・マルコ修道院長のサヴォナローラその人のことなのです。このサヴォナローラの名前が通りに付いていることから何らかの関連があるのでは?と想像できますが、実は彼はフェッラーラ出身なのです。
 サヴォナローラ通りは、それに続くヴォルタパレッタ通りと合わせて、昔はサン・フランチェスコ通りと呼ばれる、大聖堂と1391年創立のフェッラーラ大学とを結ぶ一つの通りでした。ニコロ2世は、ここを1386年に始めた第一次都市拡張工事の中心軸に据えたのです。現在この通り沿いには、13世紀の建物の上に15世紀に再建されたサン・フランチェスコ教会(Chiesa di San Francesco)や、15世紀の典型的な上流階級の館ロメイの家(Casa Romei)があります。
 ロメイの家には、14世紀から15世紀の絵画や調度品、家具などが展示されており、当時の上流階級の生活ぶりを伺い知ることが出来ます。建物の構造自体もルネッサンスの影響を強く受けているようで、特に回廊付の中庭はとても個人所有にしては家の割には立派なものと言えるのではないでしょうか。
 ニコロ2世による第一次都市拡張工事の最終地点は、スキファノイア宮殿(Palazzo Schifanoia)でした。この宮殿は14世紀に着工され、ピエトロ・ベンヴェヌーティ・デッリ・オルディニ、次いでエステ家おかかえ建築家ビアージョ・ロッセッティによって建築が進められました。ここはエステ家の別荘であり、エステ家の「宝」ともいわれていました。レンガ作りのファザードは、かつては一面フレスコ画で飾られていたのですが、現在はその跡形もなく、大理石の扉口が残るだけとなってしったことは、非常に残念なことです。ちなみに内部は、現在美術館になっています。ここにはルネッサンス期のフェッラーラ工房の画家達の作品が数多く収蔵されています。

第二次都市拡張工事
 ボルソ・デステによって行われた第二次都市拡張工事は、ギアラ通りと9月20日通りを中心軸として、1451年から行われました。通り沿いには、建築家ロッセッティ自身が、自分のために建てたレンガ作りの家や、ルドヴィコ・イル・モーロ館(Palazzo di Ludovico il Moro)が並んでいます。
 この館は、その名が示すようにミラノのイル・モーロ公を思い起こし何らかの関連があるのではと思ってしまうところです。しかもエステ家出身のベアトリーチェがイル・モーロ公に嫁いでいるために、公の関連が噂されたこともあるようなのです。しかしなんら根拠は見つかっていないそうです。本当のところは、アントニオ・コスタピリという人が発注者で、ロッセッティによって1495年に着工された宮殿だそうなのです。では、イル・モーロの名前の由来はというと、建物の色が全体的に黒かったために、俗に「黒い人(il Moro)」と呼ばれていたことかららしいのです。入口を入ると中庭があり、アーチを縁取る白色が、赤茶色の石に良く映えるように見えます。現在内部は、国立の考古学博物館になっていて、ポー川河口の潟地域から出土されたものなどが展示されています。
 ここまで来ると、町を取り囲む城壁はすぐ近くです。アルフォンソ・デステ1世大通りは、城壁の上にある大通りで、周りよりも一段高く作られています。これは、防衛用の要塞工事の時に、地面を掘った際に出た土を、ここに盛ったためだそうです。交通量もそれ程多くなく、道幅もゆったりとしているので、散策路にはもってこいの場所で、犬を連れて散歩いている人や、ベンチで読書に耽っている人などを、よくみかけました。

■フェッラーラにおけるルネッサンスの集大成
 エルコレ1世が第三次都市拡張工事に着手したその時、フェッラーラの町は黄金期を迎え、政治的安定、ルネッサンス芸術や音楽の花が開いていました。工事自体は1492年の城壁の掘削を皮切りに、エステ家おかかえの建築家ビアージョ・ロッセッティに全権を委ね、ルネッサンス都市を実現させるものでした。
 この第三次の拡張は、カブール大通り−ジョヴェッカ大通り以北の都市整備を行ったもので、新しく現れる市街地を東西に横断するポルタ・マーレ大通り−ロッセッティ大通り−ポー門大通りという一連の大通りと、南北に縦断するエルコレ・デステ1世大通りを中心とする開発を行うという、大規模なものでした。この拡張工事により、フェッラーラの町の面積は倍以上になったということからも、その規模の大きさを伺い知れます。

ジョヴェッカ大通り
 第三次都市拡張の境界線で、現在も町を横切るジョヴェッカ大通りは、当時作った通りで、以前のズデーカ運河を埋め立てて大通りにしてしまったそうです。今では、運河の面影を見つけることは出来ませんが、16世紀の貴族の館がひしめき合っている通りの姿を見ることが出来、建設当時から町のメインストリートであったことが伺い知れます。この通りは、今でも町のメインストリートで、とても交通量が多いです。

エルコレ・デステ1世大通り
 エステ家の城から北に向かって、新市街を縦断するように延びるエルコレ・デステ1世大通りは、第三次都市拡張工事の中心軸でした。ここは、新市街の目抜き通りとして石畳が敷かれ、風格を持つ通りとして作られています。道の幅は中世の通りとしては非常に幅が広く、現在でも車が余裕ですれ違えるほどの広さです。都市の規模からは不釣り合いと言えるかも知れませんが、そのような立派な通りだけあり、非常に印象的な通りと言えます。この通り沿いには、15世紀の館(大きな建物でいわゆるパラッツォ)が数多く残っています。その中でも、一際目を引くのが、ディアマンテ館といえるでしょう。

ディアマンテ館
 このディアマンテ館(Palazzo dei Diamanti)という名前は、外壁を覆う石がダイヤモンドの突起状をしていることにちなんでいるのです。今回の第三次都市拡張計画を行ったロッセッティの作品で、2000個もの白を基調色とした大理石の突起で覆われた建物は、赤レンガ色の建物がほとんどを占めるのこの町では、ひときわ異彩を放っている印象を受け、非常に新鮮な気持ちで見ることが出来ます。新市街の二つの目抜き通りが交わる交差点の角にある装飾物は、燭台をモチーフにしたものらしいです。ちなみに、現在内部は国立絵画館となっていて、フェッラーラ工房の画家達の作品が展示されています。

ロッセッティの都市計画
 ロッセッティが行ったこの都市拡張では、バランス良く、建物、広場、庭園などを配置することを目的としていました。そこで作られた広場の一つが現在も残っている、アリオステ広場(Piazza Arioste)です。
 広々した空間には、並木が植えられたりと緑豊かな広場になっており、石畳が敷かれたピアッツァとパルコの中間のような印象を受けます。しかも、広場の中には競技場にあるトラックのようなものがあり、広場としての特異性を示しています。中央には円柱があり、その上にはルネッサンス期の宮廷詩人アリオストの像が置かれています。ちなみにこの人物像、建設当時からアリオストの像が置かれているわけではなく、始めはアレッサンドロ7世の像が置かれ、次いで自由の女神、ナポレオンが置かれたという歴史があるそうです。

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